醍醐味はこれから?

とうとう50代の大台に乗ったワタシ。
年取ったのに何だかとてもワクワク o(=^^=)o…不思議だ。
吹っ切れた・・・と言うのが今の気分にピッタリの言葉。


幸せだったのは幼少の頃。
父は建具職人の棟梁として働くかたわら、私をとてもかわいがってくれた。
保育園へ行くのを泣いて嫌がる私を、バイクの後ろに乗せて工場(こうば)まで連れて行ってくれた。
そこで木の木っ端で遊んだり、並べた椅子で寝たりして過ごすのが好きだった。
病弱な母も愛してくれたし、近所にはよく一緒に遊んでくれる小6の遠縁のお姉さんがいた。
ささやかな幸せが壊れたのは小学校へ上がる前。
父は親友の保証人になり、多額の借金を負った。
一家心中しようとした夜、私が「怖い、怖い」と泣いたので踏みとどまったことも記憶にある。
家も工場も手放し、プライドの高かった父は職人を辞めてタクシーの運転手に転身した。
債権者に追われる毎日で、母と私は一時期父と離れて母の実家に身を寄せた。
そこでは酒癖の悪い伯父が「居候のくせに」と母を罵り、母は毎日泣いて暮らした。
再び父との3人暮らしが始まったのは小学校中学年の頃だったろうか。
6畳に4畳半、風呂なし、玄関&トイレ共同の安アパートでの貧しい暮らしだった。
スキー学習に必要な手袋が買えなくて、毛糸で自分で編んだのを持って行った。
毛糸の手袋は雪が着き、体温で溶けたのが外気で凍りついた。
「貧しいながらも楽しい我が家」は夢の話で、
借金と生活苦に追われる父母はいつも疲れてイライラと不機嫌だった。
ある日母は言った。「子供のために自分を犠牲にしたくない」。衝撃だった…
そんな両親に愛された実感がないまま、私は小・中・高校生時代を過ごした。
成人式を迎えた私は息苦しい生活から解放されたくて大学を中退し、就職した。
わずかながらも生活費を両親に渡し、社会人としての自由を感じた。
色々な出会いや困難も多くあったが、いつも自信を持って前へ進んでいた。
やがて結婚して息子が生まれた頃が幸せの頂点だった。
頂点は点であり、長く平らな平穏ではなかった。
2人目の子供を授かってまもなく、育児・家事・仕事に疲れ果てた私は、
娘が3歳の時にきっぱり仕事を捨てた。
生まれて初めての人生を左右する大きな挫折だった。
自分への自信を失い、私はすっかり内にこもるようになっていった。
理想的な自分を取り戻そうとあがき続け、30〜40代が過ぎて行った。
そして昨年の娘の死。
娘への執着が強く、苦しみ続けた挙句の4月の自分への暴挙。
でもそれで得た入院生活と、周囲の方々の様々なサポートを心置きなく受けたことで
私は変わったように思う。
ありのままの自分を受け入れる強さを与えられたように思う。


これから先、私の人生は「花の50代」になるだろう。
そんな希望に満ちた誕生日である。