負け組の幸せ

受験シーズン到来。
世の中の受験生とその親の大多数は大きなプレッシャーと戦っていることだろう。
我が家にも受験生がいるが、世の動きとは異なって至ってのんびりしている。
いわゆる「受験」は5年前、息子が中3のときに味わった。
息子は塾に通い、受験勉強なるものをし、
定期テスト、学力テストや模擬テストの結果に一喜一憂し、
私は体調に気を使い、励ましたり諭したり…
それが最初で最後の受験経験となった。
大学は高校での校内選抜試験に合格して推薦入学だったし、
娘は娘でこの春、フリースクールの系列にある高校に入学する予定だからだ。
願書の提出と試験はあるが、改まった「受験」という感覚ではない。
この時期も普段と全く変わらない、のほほん生活だ。
(ちなみに12月に行われた夫の昇進試験も、「明日受けてくるよ」と言う夫に、
「うん。受かればいいね」と気楽なものだった)
それでいいのか!あまりにも向上心がなさすぎる!目標が低すぎる!
人生に1度や2度、目の色を変えて勉強する時期は必要なのだ!
…と、叱られるかもしれない。
学力の高い学校や大企業への就職は、プライドを高くし自慢の種にもなるだろう。
が、そこに自分なりの目的や生きがいがなければ、
その後の人生を豊かなものにしてくれるわけがない。
自分で必要だと思えば、必死になって勉強する時期は受験期だけではないし、
勉強だけが努力した証しではない。
例えば息子は推薦を受けようと密かに決意し、2年間無欠席・無遅刻・無早退を通した。
私は彼の意思を知らなかったので、
風邪で熱のある日も登校するので心配だった日もある。
娘もフリースクールでの1年間皆勤で、冬休み返上で演劇の練習にも通った。
また、私と同年齢の従姉妹は中卒で家出したが、
30代になってから通信教育で医療事務の資格を取った。
その後ある病院を皮切りにいくつかの病院を掛け持ちするまでに至っている。
そうなるまでにどれほどの強い意志を持って努力したかは言うまでもない。
当たり前のことだが、社会に出てから目覚めることだってあるのだ。
人それぞれ価値観が違えば努力の仕方も違う。
他人と比べて自分を見るのは意味がない。
学校の先生はそのことをきちんと子供達に伝えているだろうか。
無意識にせよ、親の希望が子供の希望にすり替えられていることはないだろうか。